京都 ながおかスタジオ シニアフォト

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今では随分浸透しましたが、数年前から、テレビなどで「終活」という言葉を耳にするようになりました。エンディングノートを自分で用意したり、遺影写真を自分で用意したり・・・当時はまだまだ耳慣れない言葉でしたし、私自身、自分で自分の人生の終わる時の用意をする事がなんだかいいことのように感じられずにいました。テレビの終活特集で、シニアの皆さんが写真スタジオに遺影写真の撮影に来られる姿を見ても、写真スタジオを営み、写真を撮る事を生業としているにもかかわらず、「終活をしませんか?」「遺影写真を自分で用意しませんか?」と声を挙げることにためらう自分がいました。

3年前に、ある写真のセミナーに伺った際、講師のフォトグラファーの男性が、「残念だけれども命には限りがある。いつか遺影写真を用意する機会が来た時に、いい写真がなかったから。写真を撮る機会がなかったから。そんな言葉を聞くことのないように、僕は毎年遺影写真の撮影に来てください、とシニアの方に遺影写真の撮影をお勧めしています。」と話されており、なぜかその言葉だけはとても耳に残っていました。確かに、ご来店頂いたお客様の中に「急ぎで葬儀用の写真が必要になったのだけど、いい写真が見つからなくて・・・表情もイマイチだけどこれを引き延ばしてください。」とお家からスナップ写真を持ち込まれるお客様はたくさんいらっしゃるからです。

そんなある日、一人のお客様がご来店されました。綺麗にお化粧をされ、おしゃれなワンピースに身を包まれた、まだまだお若いシニアの女性。遺影写真を撮りたいとおっしゃいました。お話を伺うと「いつ何時、何があるかわからない年齢になってきたから自分の遺影写真は自分で用意したいと思ったの。だって自分で選んでいない小さなスナップ写真を引き延ばしたものがずっと飾られるなんて嫌だもの。」とのことでした。

また、別のシニアの女性は撮影の際に、「どっちの上着がいいと思う?」「どっちのネックレスがいいと思う?」と上着とネックレスを二つご用意して下さっていました。撮影した写真を選ぶ時の表情もとても楽しそう。

あるご夫婦は、「こんな機会でないと二人で写真を撮りに来ることもなかなかないから、しわだらけの自分の顔は嫌だけどなんだか嬉しいわ。」とおっしゃってくださいました。

そう、シニアフォト、いわゆる遺影写真を撮影することになぜか後ろ向きでいたのは自分だけだったのです。しばらくして、自分の母親にもシニアフォトを撮らせてくれないかとお願いしてみました。スタジオではなく、実家の庭の縁側で撮影することにしました。実家を尋ねると、母の口からは他のお客様と同じように「どっちの服がいい?」と。出来上がった母親の写真はとても優しい笑顔で、私が小さい頃の、私を見て微笑む母親のままでした。大きくお店の前に飾ると、母と同世代の皆さんは足を止めて写真を見てくださいました。「私も取りに来るわ。」とおっしゃってくださいました。

ありがたいことに、本当にありがたいことに今も両親は健在です。シニアフォトを通じて感じたことは、遺影写真用であって遺影写真用ではないのだという事。きっかけは遺影用に撮影しよう、だとしても、この撮影のためにご自分の好きなお洋服を選んだり、久しぶりにご主人と写真を撮られたり。今までたくさん頑張ってこられたご自身の、素晴らしい今の記録なのだと思います。そしていつの日かその写真を使う日が来たとしても、生き生きとした表情だったり、優しい微笑みだったり、嬉しそうな表情だったり。そんな写真が飾られたらそれは素敵なことだといつか思えるような気がするのです。「この写真しか引き伸ばせるのがなかったからなぁ。」ではなく、「いい表情やなぁ。撮って良かったなぁ。」この方がみんなが嬉しいですよね。

スタジオにご来店いただくのはもちろん、ご希望であればご自宅にも伺わせていただきます。スタジオに素敵なシニアフォトをたくさん飾ること・・・スタジオが優しい、あたたかい空気に包まれるんだろうなぁと今の私なら思えます。

シニアフォトをお考えでしたらぜひ、ながおかスタジオにご相談くださいね。

http://www.nagasta.com

 

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